岩崎夏海さんのブログがおもしろい

ブログを書く人で、このひとのブログは面白い(啓発)と思わせる人がいる。
そのなかの一人が岩崎夏海さんのブログ。
そして、面白いテーマだったので自分の考えも含めて考えてみた。

ハックルベリーに会いに行く・教育について

実は教育の分野に興味がある。要は、いかに分かりやすく説明でき、多少興味を持ってもらい、相手に理解してもらえるのか?という分野のこと。ちょっと今回は話しがずれるかもしれないですが、
気になる文と、自分の思ったことを書いていきたいと思う。

※具体的に言うと、「教育は強制」という部分には賛同するが、それを、大阪府基本条例に書かれているように「グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること」という理念に結びつけること、には反対なのである。

この文を読んだときに、正直えっ?と思った。
1)教育は強制=何か同じ考えしか持たなくなる。個性がないロボットみたいだなと。
2)グローバル化が進んでいる(海外企業の進出など)ので、そんな相手とも対等に競争できる人材を育てたい。
なんで岩崎氏は、2)に対して反対するのだろう?と思った。別に変なこと言っていないなと思って読んでいく。

※「昨今」のグローバル社会は、「将来」においては「過去」のものにならざるを得ないからだ。
つまり、この大阪府基本条例には「将来への見通し」に欠けているところがあるのである。将来のグローバル社会においては、「競争力」はむしろ優位性の低い能力となり、変わって「協調性」が重要とされるようになるだろう。だから、これからの教育に必要なのは協調性を発揮、創造していけるような発想力や胆力、あるいは実行力を養っていくことである。

たしかにそうだ。グローバル社会(世界で通用する人材、企業)は、将来においては「過去」になる。
よく考えてみると、円高が進み、ドル安、ユーロ安、世界の国々では負債を抱えて破綻した国がある。
相手と競り勝って伸びる企業(人材)より、協調性が重要になってくる。
3月11日に発生した東日本大震災。人ごとのようにいかないと、日本全国の人々が思ったことだろう。
ガソリンの供給がストップしたり、食料品や防災関係の製品不足で買い占める人々、多数の死者が出て、住まいも失い、職を失い、家族を失なった。
協調性を発揮し、将来を想像していける発想力や行動や実行力を養っていけるのが”教育”というのは、その通りだと思う。


※いま公式RTした橋下府知事の意見、じつは僕が教員時代に最も頭を悩ませた問題でもあった。僕は、子どもたちに自由に発言させ、自由に考え、人と違うことを良しとする教育をしていたけれど、それって僕のエゴなのではないだろうか。はたして、いまの社会はそのようにできているだろうか、って。

乙武さんは、「自由」という言葉を驚くほど軽い調子で口にするが、問題なのは、そもそも乙武さんの「自由」に対する考え方がとても貧弱なところだ。真の自由は「自由に発言させ、自由に考え」る中からは生まれない。発言を規制し、考え方の枠組みを押しつけるところから生まれるのである。

自由は、いろいろな意味でとても開放感があるイメージがある。
本来の人間の姿や、世の中のあり方が自由でなければいけないように頭に刷り込まれているかもしれない。
しかし、真の自由とは、発言を規制し、考え方の枠組みを押し付けるところから生まれるという意見も納得である。
みなさんは、この文だけではイメージできない人が多いだろう。
そこでわかりやすい例をあげている。

※昔、萩本欽一さんの番組のスタッフをしていた方から聞いた、興味深い話を紹介しよう。欽ちゃんの番組は、その頃視聴者の投稿に基づいたコントを放送することが多かった。視聴者が投稿してきたアイデアを、欽ちゃんやその他の出演者がコントとして演じるのである(『欽ちゃんのドンとやってみよう!』などがその代表である)。
そして、そうした番組の最後には、必ず視聴者へ投稿の呼びかけをしていた。その際に、「テーマやシチュエーションを限定」して応募を呼びかける場合と、その逆に、「何でもいいので送ってくれ」と呼びかける場合とがあったそうなのだが、投稿数は圧倒的に「テーマやシチュエーションを限定」した場合の方が多かったのだそうである。どうしてかというと、テーマやシチュエーションを限定されると、そこで方向性や思考の足がかりを得られるため、視聴者は発想を広げやすいのだそうである。その逆に何も限定されないと、どうしよいか分からなくなってしまい、かえって発想を広げられなくなるというのだ。
このことから分かるのは、真の自由とは、ある一定の枠組みや規制の中でこそ育まれるもので、乙武さんの言うように「自由に発言させ、自由に考え」ていいと子供たちに言ってしまうと、かえって彼らを困らせてしまうということだ。考え方の方向性や足がかりを得られないから、かえって自由に発言できなくなったり、自由に考えられなくなるのである。

「テーマやシチュエーションを限定して応募」を呼びかけたほうが、「何でもいいので送ってくれ」と呼びかけた方に比べて、圧倒的にテーマを限定した方の応募が多かった。
視聴者が方向性や思考の足がかりを得ることができるから発想が広げやすい。
なるほど、納得である。限定したものは、いろいろある。

例えば20個限定の無農薬のアップルを使ったアップルパイなど。

限定しないものの例は、ラジオ局へメッセージテーマに沿ったメッセージを送る際に、「その他なんでもOKです。メッセージをご紹介できなくても、すべて目を通します」という言葉にとても違和感を感じていた。心がこもっているようでこもっていない言い方だなと。
そうしたら、極端な例だと、愚痴文句をダラダラと書いたり、放送禁止用語並べて送っていいの?となる。
「自由とは、枠や制限があって可能なことなんだ」と気づいた。

それは、芸術の世界でも顕著だったりする。この記事に、そのことが詳しく書かれている。

制限が創造性を高める理由

非常におもしろい。つづきはまた明日書きます。