岩崎夏海さんのブログがおもしろい その2

では昨日の続きを

不登校の子が口にした言葉。「学校には、やらなければいけないこと、やってはいけないことの2つしかない」――じつは、教員も同じだった。「やらなければいけないこと」と「やってはいけないこと」。どちらも、強制。すごく、苦しかった。きっと、子どもたちも苦しいだろうなあと、強く感じた。
ここにも誤解がある。苦しいことは良いことである。苦しいからいいのではないか。苦しいから楽しいのである。本当の楽しさとは、苦しさの中にこそある。勉強だってスポーツだって、仕事だって恋愛だって、苦しみの末に成し遂げてこそ、初めて充実感を得ることができるのだ。
苦しみと楽しみはセットなのである。二つで一つなのだ。苦しみの伴わない幸せはない。「禍福はあざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」といった諺が、そのことを表している。あるいは孔子の「苦中楽あり」。これがこの世の真理だ。

乙武さんは、もっと苦しんで良かったのだ。子供たちは、もっと苦しむべきだったのだ。しかし不登校の子供たちは、そこから逃げてしまった。だから、余計苦しくなっているのだ。
苦しみから逃げた先には、苦しみの無限地獄が待っている。実は、それこそが本当の苦しみなのだ。だから、子供たちをそこに追いやらないために、学校には強制的に登校させなければならないのである。

苦しみと、楽しみはセットである。この見方は目からウロコだった。「枠と制限」からきた見方だ。


※社会とはそうした苦しいものなのだから、子どもの頃から管理・強制し、そのなかで生きていける人間を育てるべきという考え方もあるだろう。でも、僕にはできなかった。そんな息苦しい社会を「是」と思えない自分がいたから。子どもを、社会における交換可能な歯車として育てることができなかった。

※ここにも大きな誤解がある。子供たちを「管理・強制」するのは、「社会における交換可能な歯車として育てる」ためではけっしてない。むしろその逆である。「変化する社会に臨機応変に対応できるアメーバのような存在として育てる」ためだ。
ものごとを強制されたり、苦しい思いを味わったりすると、それに対する免疫ができる。また、対応の仕方をいくつも学ぶことができる。だから、子供のうちにものごとを強制されていると、大人になってから危機に陥った時にはそれにしばらく耐えられるし、豊富な危機対応のバリエーションを持っているので、新たな解決策を生み出したりすることもできる。
しかし自由な発言や考え方を許されながら育つと、逆に自由な発想ができなくなるので、想定外の事態に遭遇した時に、新たな解決策を生み出して対応することができない。また苦しみへの免疫もないから、ショックが大きく結局何もできなくなってしまうのである。
そういう変化に弱い人を育ててはいけない。だから強制するのである。

変化する社会に臨機応変に対応できるアメーバーのような存在として育てる。
奥が深い。強制することが大切だと知る。

※一人ひとりが自分らしさを大切に生きていける社会。これが僕の理想。だけど、いまの社会はそうなってはいない。僕は、はたして教育者として、「是」と思えない現代社会に適合する人間を育てていくべきなのか、あくまで僕の理想に基づき、個性を重んじた教育をしていくべきなのか。本当に悩んだ。

※自分らしさって何だろう? 乙武さんは、「個性を重んじ」ると言う。個性を重んじるとは、人間とは「一人ひとり違うもの」であるという前提から生まれる考え方だ。人間は一人ひとり異なっている(つまり「個性」があり、それを認める)という前提のうえで、その「全ての異なったものに価値がある」とする考え方である。
しかし、この考え方は非常に危険である。なぜなら差別につながりやすく、また人間同士を分断して孤独にさせ、さらには犯罪さえ助長してしまうからだ。
まず「差別」についてだが、人間は一人ひとり異なっているという前提に立つと、いかにそれを「等しく価値のあるものと見ましょう」と理想を唱えても、つい優劣をつけてしまうという現実が、その前に立ちはだかるのだ。異なる二人の人間を目にした時、人はほとんど無意識に、そこに優劣をつけようとしてしまう。二人の女の子がいたら、ついどっちが可愛いだろうと比べてしまう。人は、そういう衝動から離れられることは絶対にない。
だから、そういうところへ行く前に(本能的に人を比べてしまう前に)、まずはその前提から覆す必要があるのだ。つまり、一人ひとりの「違い」を認めるのではなく、一人ひとりの「同じ」を認めるのである。「多様性」に目を向けるのではなく、「一様性」にこそ注目するのだ。
これは、「人間はみな一緒」という前提に基づいた考え方である。黒人も白人も黄色人種も、みな一緒。韓国人も日本人も一緒である。乙武さんもぼくも一緒だ。ぼくが乙武さんであり、乙武さんがぼくなのである。
だから、意見も一緒であるべきだし、考え方も一緒であるべき。感じ方も一緒なのである。同じなのだ。同じ人間であり、同じ生き物なのだ。
だから、ぼくは意見の違いなど認めない。意見の同じところをこそ認める。「違い」になど目を向けない。「同じ」にこそ注目するのである。
そもそも、放っておいたって人は、どうしたって「人それぞれ」という考え方に向かいがちだ。だから、それをバランスするには、むしろ「人は同じ」と思うくらいがちょうどいいのである。

本能的に人を比べてしまう前に(個性とか差別とか)、その考えをぶっ潰すことから始めないといけない。
他との違いを比べて認めるのではなく、一人一人の「同じ」を認める。
どうしても僕も含め、「ひとはそれぞれ」という考え方に向かいがちだ。
バランスを取るために「人は同じ」と思うくらいがちょうどいい。なるほど。

※だから、教育界には様々な価値観を持った人間がいてほしい。橋下式もアリ。乙武式もアリ。僕が『だいじょうぶ3組』のなかで、赤尾、白石、青柳など、教員の名字すべてに色を入れたのも、そんな思いから。まずは、教員が色とりどりの存在であるべき。教員だって、「みんなちがって、みんないい」。

※さまざまな価値観を持った人間を許容すると、社会は必ずおかしな方向へ行く。だから、逆の方が良い。そもそも、放っておいても人は、さまざまな価値観を持とうとする。だから、むしろそれを認めないという考え方の方が、バランスが取れるのだ。
社会というものは、異なった考え方を容認してしまうと成り立たない。例えば、無差別殺人を嗜好する人間が現れたとしたら、それを止める手段がなくなるからだ。
だから人類は、同じ考え方を持つよう「強制」することで、バランスを取っているのである。実際そうやって、これまで数万年存続してきた。法律というソリューション(インフラ)は、社会を(人類を)継続させるために発明されたのだ。これがなければ、人間はとっくに滅んでいただろう。

放って置いても人は、さまざまな価値観を持とうとする。
人類は、同じ考え方を持つよう「強制」することで、バランスをとっているのである。
だから人類はこれまで数万年存続してきた。法律や今に社会、人類が継続させるために発明された。

人の意見や考え方を聞くことは、とても面白いと思った。
昔だったら、反対していただろ。今では面白いほど聞き入れられる。良いとか悪いとかという意味ではなく。
様々な経験をしてきた人々と出会い、刺激を受けていきたい。