岩崎夏海さんのブログは改めて面白い

岩崎夏海さんの本の価値や自販代行について書いてあるブログが面白かった。

佐藤秀峰さんの本やマンガへの考え方について
さっそく自分の考えを含めて書いていく。

※その、佐藤さんの本やマンガへの考え方について、いくつか違和感を覚えたので、ここに書きとめておきます。

▷本は購入した方の所有物ですから、破こうと捨てようと作家は口出しできる立場にはありません。

※本は、購入した人の所有物ではありません。そもそも、太陽とか土とか水でできた紙を使ってできた本を、数百円払ったくらいで「所有」しているという考え方がおこがましい。
当たり前ですが、本でも何でも、一個人の完全な所有物となるものなんて、この世にはありません。「物」は、言うならばこの世界そのものの「所有物」であり、人間にとってはむしろ「借り物」という方が近いです。今認められているいわゆる「所有権」とは、その「借り物」の処遇について、他の者よりも比較的多く決められる権利――くらいの意味しかないのです。


そうです。その通りです。今自分が持っているもの、存在するものすべては借り物です。死んだら、自分の肉体は、この地球にお返しします。地球に置いていくといったほうが分かりやすいかな。自分で保有したいことを自我、我欲という。だからすべての存在に「感謝」していこうと日々思っている。


※ぼくは、誰が持っている本であっても、その持ち方や使い方を誤っている人がいれば、行って「誤っている」と勇気を持って指摘してきたいと考えています。
なぜ読者は、購入した本の使い道までを、作家に指示されなくてはならないのでしょうか。
購入した本は購入者の物で、楽しみ方は自由なはずです。
上記でも述べましたが、購入した本の使い道は購入者の自由ではありません。まず、読み方からして「自由」ではありません。例えば「あ」という文字があったとしたら、これを「い」や「う」と読んではいけないのです。
これは冗談ではありません。もし「楽しみ方」が「自由」というなら、「あなたを愛している」と書いてあったとしても、「おまえを殺す」と読むことだってできるのです。そうなると、作中の人物に「あなたを愛している」と言わせただけなのに、「あの作家に殺すと言われた」として、その作家を訴える読者だって、そのうち現れるのではないでしょうか(あるいはもうすでに現れているかもしれません)。
しかし、そういう訴えが認められる世の中には、今のところなっていません。そういう訴えがされたとしたら、諫められるのはその読者の方です。
このこのとからも自明なのですが、読み方や楽しみ方は、そもそも自由ではない。そこには大きな規制があります。その規制がある状態を、「自由」とは言わないのです。
第一、そもそも「言葉」というのは、先人が発明し、発展・継承してきたものです。作者も読者も、それを使わせて頂いているわけですから、これはいわば借り物です。
借り物を自由にしていいわけ、ありません。作家が自由に何でも書いていいわけでないのはもちろんですが、読者だってそれを自由に楽しんではいけないのです。

今の世の中は、発言の自由や考え方の自由など当たり前の世の中になってきた。
しかし、不動の法則、摂理が存在するのも事実である。
それを踏まえて、作家の人は、書いた作品からメッセージとして発信したいことがあるのだと思う。
例えば、「彼女が急に僕の上着の左ポケットに手を入れてきた。」と書いたとしよう。
みなさんは何をこの文から感じるだろうか?
寒いから手を入れてきた、左ポケットから白い糸が出ていたので、それを取ろうとしたなど。
答えは、「彼女が僕とこれからも2人肩を寄せ合って生きていきたい。だから、あなたのハートの温かさをポケットの中に手を入れて確かめたかった」ということを伝えてみたかった。
考え方、発想は読み手の自由と思いがちだが、ぼくは作者の意図やメッセージを汲み取りたい。イギリスの人たちは、分厚い小説を電車の中やカフェで読んでいる光景を良く目にした。しかも読んでいる人は、若い女性が多いことに気がつく。そしてとても感受性が豊かである。だから小さな子供から大人まで楽しめる作品が多い。有名どころでは、ハリーポッターとかシャーロックホームズかな。


※そもそも、著作権などというものは百年も経ったら消えます。そして、作者だって死にます。作者は、作者が得た著作権料をお墓まで持ってはいけません。
だけど、作品は残ります。作者が死んだ後も、読み継がれる可能性がある。
だとしたら、そこにまで責任を持つのが作者のあるべき姿ではないでしょうか。商売で本やマンガを描くことも否定はしませんが、それが担う役割は本当に小さなものです。
著作権料は、本来は「作者が本やマンガを描くための環境を整えるためのもの」であるべきです。作者も読者も、それを基準に考えるのがいい。
作者は、いうならば「命をかけた調査隊」のようなものであるべきだと考えています。
例えば絵描きがいたとして、その絵描きがとことんまで美的感覚を突き詰めて、素晴らしい絵を描く。
すると鑑賞者は、それに対して報酬を払うことによって、その美しいものを味わうことができる。
一方絵描きは、その報酬を糧にして、さらなる美を追究することができる。
そういうサイクルが人間社会に必要とされたから、作家は誕生したし、作家を取り巻くビジネスがこれまで続いてきたのです。そこにおいては、それぞれがいくらかの痛みを伴いながら、しかし報酬も得るという循環構造がある。作者は危険を冒すが生活ができ、読者は報酬を支払うが素晴らしいものを味わうことができる。
しかしそこにおいて、例えばマンガ家が提供する「面白さ」というのは、死や狂気に隣接するくらいにぎりぎりに心を研ぎ澄ませて、初めて見えてくるものでもある。だから、それを得るには、一歩間違えば死や狂気にとらわれてしまうという危険も伴うのです。
マンガ家は、その危険な作業に、生きて戻れるという保証もないまま、進みます。もちろんそれは、自らの好奇心が原動力の場合もありますが、一方では、多くの人に美を届けたいという、社会に貢献したいという思いからでもある。
その際に、マンガ家は純粋に「先生」と尊敬されるべき存在となるのではないでしょうか。命の危険を冒してまでつかみ取ってきた素晴らしいものを、ほんの数百円を払えば見ることができる。それが、マンガ出版というビジネスが成立している場なのです。
そこにおいて、危険を冒しているマンガ家を「作家先生」と呼んで尊敬することは、何ら不自然ではないし、もっと言えば、マンガ家も自らの「先生」としての責任を強く感じている方が、そういう危険にあえて飛び込むモチベーションも持つことができ、結果として、より面白い作品を作れるということもあるのではないでしょうか。
それで言うと、作家が自らを「先生」と自認することにもまた、大きな意味があるのです。そしてまた、そういう作家であるからこそ、その読み方についても、「教えてほしい」と教えを乞うのが、一番自然で真っ当な姿勢ではないでしょうか。

生活のために本を書いている人がいる中、岩崎さんの言うように「自分の作品を残し、美や社会に貢献したい」と思って身も心もその作品に注いでいる作者の方々が現にいるのも事実。そんな方々に敬意を表したい。すごいことだよ。そんな作品を数百円で味わえるんだから。感謝しないと。作品や作家の方々を尊敬する。なぜなら、自分の知らない世界観を言葉で表現している芸術家だと思っているから。MACAppleの製品も作品だとおもっている。美や作り手のメッセージが製品から伝わってくるから。